“コスパ”と効用

 こんばんは。昨日の第一稿が思っていたより多くの閲覧をいただいたようで驚いており、また読者には感謝しています。まぁ欲を言えば、できればコメントでリアクションをくださるとモチベーションが上がります。投稿から24時間で3ケタちょいのPVがついたのですが、これはなにかbotみたいなもので新参者を査証してたりするんでしょうかね。そこらへんに関しては全然わかりません。

 さて、最近耐え難いほど蒸し暑い日が続くので、大学や公営のプールに通うことが習慣化してきました。ぼくは睫毛の形がおかしく(コレは自分でも言っていること正しいのかよく解らないのですが)やたら水が目に入り込んで痛むため、ゴーグル禁止だった小学校低学年の頃まではヒドい水嫌いで泳ぐのも25mがやっとだったのです。ところが、小学3年生のごろに勝浦にある親の勤め先の保養所に附属するプールで、静岡の浜育ちの祖母に泳げないことを残念がられたり親に挑発されたりといったことから発奮し、3日の猛特訓の末見様見真似でバタフライをやるまでに成長したのでした。

 そんなわけで、専門教育を受けていないのでフォームは不細工でしょうが、マイペースにゆっくりと平泳ぎで回遊するのは結構好きです。ただ最近バタフライがいまひとつうまくいかないのと、クロールも回数を重ねると肩が痛みます。

 

〈きょうの本題〉

 さて、本題に入るとしましょう。長々と関係のない話をしてたら本題で何の話をしようとしてたのか忘れた、なんてことは僕にとって決して無縁のことではありません。しょっちゅうです。何を隠そう、既にプールで泳いでいた時に練っていた構想の1/3を忘れました。恐ろしい短期記憶の貧しさです。誰か救ってください。

 ともあれ、きょうの投稿は「”コスパ”と効用」と題してみました。1年ほど前の友人との会話から着想を得たものです。

 ある時、その友人がこう述べました。

 「コスパばかりにこだるわっていたら人生の豊かさのようなモンを失う気がする。」

 彼とは短くない付き合いですので、言いたいことはよく解りました。私なりに日日翻訳すれば、

 「類似する商品にくらべて相対的に安価なものばかりを選好して消費し、そこから得られる効用の多寡ばかりを気にしていたら、相対的に高価なものから得られるであろうより高い効用を知らぬ不幸を蒙ることになるのではないか。」

という感じでしょうか。うん。わかる、わかるぞ。

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 これはアメリカ資本に呑まれた某全国チェーン小売店の以前の標語ポスターです。現在は“やすいクセして”だったかな?私もよく使います。生鮮食品の鮮度をウリにして返金サービスもしているのですが、日用品のプライベートブランドがよく充実していて基本的に高く評価しています。ただ一点、過熟というか腐敗を恐れてなのか知りませんが、どの店舗に行ってもトマトが青いまま捥いできたような味の薄さ・旨味の浅さであり百発百中のゲロマズさであることを除いては。近傍の某Kストアさんとかと較べると

目も当てられません。生食用であることを疑うレベルです。ガキの頃にアレを食わされてたなら間違いなくトマト嫌いになるでしょう。実に罪作りな品質です。

 悪い癖でまた関係のないトマトの話に脱線しました。話を戻しましょう。ここで僕は、この友人の「コスパ」というワードでそれを論じたのには違和感を覚えました。なんというか、「その場合コストを大きく見積もりすぎか、あるいは効用を過少に認識してんじゃね?」ともいうべきいう感覚です。

 私は学部生活の冒頭にチロっとミクマク基礎をやらされた程度の知見であり、某究会経済学コースの恐ろしい人々みたいのようにエピソードを近代経済学的観点から解剖できないのですが、素朴な実感として彼の謂い(アンチ“コスパ”)、そして私の抱いた違和感には何かインプリケーションがあるように思います。

 例えば、その友人(以下ではアンチ”コスパ”を略しACP君と呼ぶ)とした今年はじめの旅行について。僕らは朝の4時には起き、片道500kmの距離と2370円の交通費(みなさん何の事かお判りでしょう)、そして付随コスト2000~3000円ほどを支払って、ある素朴な食事をしに行きました。それが何なのかはnoteで記そうと企んでいるのでここでは書きませんが、とにかく主食材それ自体は家でも食えるし、なんなら百均とかディスカウントスーパーですら買えます。僕はふとした契機からその食材が名物であることを知っており、今回の旅行でアクセスしうるような立地から旅程組み込みを希望したのです。おそらくACPくんは私が提案するまでソレについて知らなかったか、もしくは積極的にそれを食いに行くことを希望しなかったでしょう。

 しかし、その食事を平らげた私もACPくんも極めて高い効用を得ました。我々がそのように感じたのは、ここまでコストをかけてきたサンクコストの大きさばかりに起因するものでなく、今まで食べていたものとは全く違う優れたクオリティをもっていたからでしょう。
 さて、ここで疑問が生じます。果たしてここで得た効用を、我々は初めからどれほど精確に予期できていたでしょうか。ソレを知らなかったACPくん(既知だったらごめんな)、そしてそれを知り旅程に組み込むことを望んだ当の僕でさえ、そこで得られた効用は予想外のものといって差し支えないでしょう。本稿でコスパという単語にクオーテーションマークを付けたのも、こうした特殊な用法に因るものです。果たしてこれはコストとパフォーマンスについての比較衡量という語意をどれほど含むかなあ?という意味ですね。

 さて、この問題は、我々を当然に包囲し、そして我々自身も享受している自由市場という経済システムでも共通するように感じます。

 ところで、リアルで交友のある人のなかには、(どれ程の真剣さを以てなのかは測りかねるが)私を“社会主義者”とか“共産主義的”と評する人が居ますが、当のからすれば全く的外れです。私は市場とか規制とかといったものを道具的にしか評価しておらず、それらのいずれにも内在的価値を認めたり、まして宗旨的価値を認めたりしていません。

 ついでに言えば、日頃の仲間と語らっている国鉄民営化に関するいくつかの部分的批判や新幹線並行在来線に対する議論においても同じことが言えます。特に国鉄民営化の問題はその構造が極めて複雑であり、単なるミクロ経済学的問題として完結できるかについてかなり疑問があります。ですから民営化で上手くいった箇所とそうでない箇所についてそれぞれ話題は尽きないわけです(ここで民営化に一定の理解を示しているのはその功労者とされる某社のK氏や民営化に理解を示しているYouTuberへの忖度ではもちろんありません)。
 まぁ浅学菲才の私ですが、”情報の対称性が全然ねえから市場はクソだわ”みたいなモデルで現代経済学が廻ってるとは思っていません。むしろそこを市場原理で補完している広告やPR業というものに興味を持ち、手隙のタイミングでボチボチ学んでたりするのですが、そこでも色々思うところが無いわけではなく……。
 まぁ、その話はまた別の投稿にしましょう。字数を見たらもう3000字近いそうです。案外いくもんだなあ。今晩はここらでお開きにします。話があっちこっちに飛んで本題についてあまり触れられなかった気もしますが、ご意見や感想などありましたらコメント欄にお願いします。それでは。