食事に関する考察 ―ハレとケ―

 こんばんは。相変わらず暑いですね。今日は昼頃から後輩をお供に大宮周辺の社会科見学的なアクティビティをこなす予定だったのですが、残念ながらその後輩が体調崩してしまったとのことで、新宿まで出てビックカメラでウインドウショッピングをした以外は昨日同様特にお出かけをすることもなく家で過ごした一日でした。プールに行こうかなとも考えたのですが、ちょっと背中の筋肉が張っていたことと、最近2週間くらい行きたいと思って行けていなかったラーメン屋に行くことにしたので、さしあたり家に直帰することにしました。あまりの暑さにやられて帰ってきて少しシャワーを浴びてから昼寝をしたのですが、これが運の尽きで割と長い間こと眠ってしまいました。結局ラーメン屋には行けずじまいで、また後日に繰り越されることとなりました。

 ところで、最近LINEの調子があまりに悪く困っています。送信が完了された、つまり送信時間が表示されているにもかかわらず、相手にメッセージが届いていないということがしばしばあるのです。どうしたら直るのかなと思案に暮れています。同じような症状が起きていて、かつ改善されたような方はその処置を教えていただけると大変嬉しく思います。

 さて、今日もお料理・食事の話をしたいと思います。昨日の投稿のコメント欄で「冷製パスタのレシピも聞きたい!」とのご意見をいただきました。レパートリーはあるのですが、長らく作っていないので自分で作って味を確かめてから書こうと思います。今のところトマト系とクリーム系と2つの候補があるのですがどちらがいいでしょうかね。いずれにせよ、したり顔でゲロマズレシピを上げては沽券に関わりますからセルフ毒味は外せません。

 そういう訳でレシピ投稿は後回しにし、今日は私の「食事についての考え方」について取り上げてみます。

 わたしが、個人的に衣・食・住の中でもっともこだわるのが食の部分です。各地を鉄道で探訪・巡検していますが、可能な限りでメシ(と風呂)だけはケチらないようにしています。

 ちなみに衣には機能面を除いて殆ど興味が有りません。私の価値観として「嗜好の優劣を感じないものにカネはかけない」というものがあります。服飾素材の善し悪しなんて判らないし、そもそも服なんて目を瞑ってたら何のことやら判らない、目を開いていても鏡がないと判りません。わたしはそういう形而下のしかも極めて皮相の部分でああだこうだ感じる趣味が無いのです。結婚式に招待されてTシャツ短パンでいくようなマネはしませんが、これも程度問題だと思っています。はっきり言って日々のオフィスワークをするのにCfa(わからない方は温暖湿潤気候でググってください。高等学校で学ぶ地理のやつです)の日本の気候でスーツを着るのをデファクトスタンダードにするのは非合理を通り越して滑稽です。正気の沙汰ではありません。

 

 食い物の話に戻りましょう。そんな訳でいわゆる食道楽に結構親和的な私なのですが、しかし、その中でも割と「霽れ(ハレ)と褻(ケ)」を区別したいタイプだと自認しています。 

 諸賢には釈迦に説法ですが、「霽れ(ハレ)」というのはイベントとかそういう特別な日ということですね。成人式とか入学式の「晴れの日」のハレも同じ意味でしょう。対して「褻(ケ)」というのは"日常づかい"とか"普段の"みたいな意ですね。正確性は保証できないのですが、"ケガレ"みたいな強いネガティヴ要素はなく、usualくらいの意味だと思っています。

 ところで、「グルメ」とか「食通」とか「食道楽」と聞いてどんなイメージを持つでしょうか。おそらく多くの人は『美味しんぼ』の海原雄山とか山岡士郎みたいな連想をするのではないでしょうか。f:id:Tocqueville_tan:20190802001158p:plain

 いうなれば普段から食うもの全てにうるさくて、およそ食で饗す側には回りたくない相手、みたいな感じでしょうか。個人的に全国各地の食の名品や銘酒に関して勉強になることが多いこと、登場人物のイカれたセリフが滑稽で笑い種としてウケることから、『美味しんぼ』は割と読み込んでいます。ただ作者・雁屋哲の直情的で分析を欠く食文化以外のイデオロギーに関してはまったく支持できませんがね。

 

 しかし、僕の場合はそういうタイプでは無いのです。むしろ、「霽れ」の「褻」の食事を区別して、それぞれの枠の中で愉しみたいという感じです。日常のおうちごはんはそのほとんどが褻の食事なはずで、それに霽れの要素を求めることはズレている気がするのです。言うなれば子供の授業参観に行くのに、パリコレのランウェイを飾るようなファッションはやはり場違いですよね。そういう感じです。

 この褻の料理の考え方について、私より洗練された方が居ます。料理研究家土井善晴さんです。詳しくは彼の著書などを読まれるとよいでしょう。紙媒体からウェブ記事まで、いろんな雑誌にも寄稿されています。

 彼は「一汁一菜のススメ」をされています。一般に推奨される「一汁三菜」をより簡便にした形態ですね。僕としては、一菜で栄養素のバランスを担保するのは結構難しい気もするのですが、まァ品目の教条化から解放したという点で支持しています。

 一方でよりドラスティックに、こうした説教臭いような食事の理想のあり方そのものを棄却する考え方もあるでしょう。しかし、この立場には私は賛成できません。 

 私の一方の親戚は静岡県の沿岸部に多く住んでおり、中には漁師を生業としている人もいます。そういう訳で、幼いときから未明獲れのイサキやらタチウオやらシラスやらがお裾分けとしてその日の夕刻にはクール便で届くという食生活を送ってきました。あるいはもう一方の親戚が住む会津から、コシヒカリの新米が届けられ、我が家の米びつは常にこのコメで満たされていました。

 そうした食生活を送ることで、どの季節にどの食材が旬を迎え、そうでない時季の品や鮮度の劣るものに比して旬の新鮮な食い物が旨いかということを、まさに舌をもって学んできたわけです。

 こうした徳は、やはりひとつ認められて然るべきだと思います。もちろんすべての人にそれが実現可能でないのでどの程度強い規範として採用できるのか?という指摘はもっともでしょう。ただ、僕個人の経験としても、より一般化して褻の食文化の一環としてもこうした食について理想のあり方の議論そのものを棄却するのは正しいとは思えません。

 まあ、こんなに偉そうに語っていても実際のところ日々の食事は面倒だからお茶漬けですますとか、インスタントのパスタソースでチャチャッと済ますみたいなことをしているのですが、それと理想論とはまた別ですからね。

 読者の皆さんは食事についてどんな考えをお持ちでしょうか。「コメは単一銘柄米に限る!」とか、「ビールは一番搾りに限る!」とか、「蕎麦粉8割以下の麺は蕎麦とは認めない!」とか、いろんなこだわりがありますよね。コメント欄でのご意見をお待ちしています。それでは。