新年早々、お詫びと弁明・報告など。

 ご無沙汰しております。トクヴィルたんです。新年明けましておめでとうございます。昨年中、わたしは色々なひとたちから支えられて様々な学びを得ました。特にしょっちゅう家に押しかけて諸々の経綸問答をした南海先生、法哲学や政治哲学の問題について常に鋭いアンテナ活かして問答を投げかけてくれ、ともに勉強した時間の長かった攻究会の後輩の髙橋君や宮川君あたりには色々と刺激を貰うことができました。 しかし、実は昨年12月アタマから私は心身の調子に異常をきたしておりました。きっかけはちょっとしたことだったのですが、信頼していた目上の人から自分の理解できない形での拒否的反応を受けたことをキッカケとして文字通りすっかり狂ってしまいました。今回はその顛末と、いまの状況について取り留めなく書いていこうと思っています。

 

 夜、寝る前にカーっとアタマに血が上る感覚に苛まれ、その後30分もするとまったくの虚無の精神状態がくる。床についても3時間くらい経てば、寒いはずなのに額に汗をかいて起きてしまう。そのまま寝直しても2時間と眠ることができない。メシを食おうにも松屋の味噌汁付き牛丼並盛が食べ切れない。自分で作るかと思って調理をするが、出来上がる事には食欲が失せて食べる気がしないなど。他にも、突然吐き気が襲ってきたり、まったく根拠のない不安に襲われて居ても立っても居られなくなったり(南海先生の家で過ごしている時、突然電気ストーブの火の用心が気になって終電後にタクシーで帰宅したりした)、今から考えてみれば明らかに異常な精神状態だったようです。

 

 年末になり、幾らか諸症状が寛解しマトモに寝られる日も増えました。恒例の年末鉄道旅行は伊勢路紀州路の小旅行とし、ごく短いコンパクトな旅程でしたが紀勢本線の完乗も果たすことができました。友人にも会い、久々の乗り鉄アクティビティに完全に心身の体調も回復するだろう!と期待していたのですが……

 

 思ったほどではありませんでした。実家で向かう帰路、名古屋を出たあたりで急速に体調が12月アタマのそれと同じくらい悪化してしまい、止む無く浜松から新幹線に乗りました。その後も座ってるだけでしんどく、大晦日の22時頃に実家に着いた後はひたすら横臥している状況で、昨晩ようやく大晦日ぶりに外に出たような感じです。正直、月曜から平常アクティビティに戻るだけの快復は出来ていませんが、しかし完全に何もやらずに居るというのは僕にとって無理です。というか多分その選択は諸々を悪化させるでしょう。

 

 てなわけで、新年早々にもかかわらず普段どおりの生産性は期待できないところなのですが、何事もベストエフォートで最終的な帰結が最早になるべく行動していきますので、周りの皆さんは暖かく、お節介に見守っていただけますと幸いです。

 重ねて言うのですが、いま関わっている諸々について「休みたい」とか、「連絡をしてくれるな」ということではありません。そうではなくて、少々スピードが落ち、要領を得ないご迷惑についてご容赦頂きたいのです。もっというと、健常な僕が気合と体力で押し切っていたような力技が中々できなくなると思います。そうなると経済的なコスト増を甘受いただいき、テクノロジを使ってなんとかしていくことになるでしょう。ご不便をお掛けしますがどうぞ宜しくお願いします。

 

【追伸】

こんな調子で忘年会にも中々出られず寂しい年末でしたので、大小の新年宴のお誘いもお待ちしています。

知性・博識・賢さに関する略筆(知性などについての論考その①)

 こんばんは。トクヴィルたんです。だいぶ御無沙汰の更新となってしまいました。前回の「わがまま時代の~」の更新から103日が経っているとのことで、反省している次第です。ちなみに、言い訳がましいことを言うとブログの記事を全く書いていないわけではありません。現状、下書きに18本の記事があり、うち数本は1000字を超えています。巧く纏まりきらずに下書きフォルダにくすぶってる感じです。

 先月下旬にずっと抱えていた大きなタスクのひとつが落着したのですが、今月入ってからはそれまでの間に等閑になっていた諸々の勉強面でのインプットやタスク整理に追われていて、落ち着いて自分の脳内の交通整理をする余裕に乏しい日々を暮らしています。電源やネット環境の無い30分程度のスキマ時間でタスク処理を担っていたタブレットPCの画面が操作できない(電源はつく)というのも状況の悪化に拍車をかけています。修理に出そうにも、最近刊行された書籍の「直ちに参照すべき文献リスト」が加速度的に増えており、刊行から日の浅い書籍だと割安な古本で買うこともできず、したがって爪に火を灯すが如き赤貧学生の身にはまとまった金額が工面できずに途方に暮れている状況です。実に厳しいです。

 さりとて「これだけブログ更新を怠るのはさすがに良くないなぁ……」との思いは常に心にあったのですが、今夜その思いが突如強くなったために今キーボードを叩いています。最初は上述した書きかけの論稿を仕上げてしまおうと思ったのですが、やはりまだ詰めが甘い感じだったので全く新しいテーマで書くことにしました。

 ちなみに纏まった論稿で最後に書いてたのは9月末とか10月アタマだったんですが、その論稿の冒頭の文章がこちら↓

 

 こんばんは。トクヴィルたんです。だいぶご無沙汰してしまいました。ブログの更新履歴によれば53日ぶりの投稿になるそうです。夏休みの約二か月間、ほぼ丸々放置していたということになるんですね。

 この間、読者さんからTwitterと連携している Peing(ペイング) 質問箱というサービスへ「次の更新はいつだ?」「更新しないのか?楽しみにしているぞ。」といったような投稿を複数回お寄せいただきました。お蔭さまで脳内のto Doタスクリストから「ブログ更新」という項目が消えずに済み、「いちど長期更新停滞にハマると抜け出しにくく、以後放置しがち」というブログのビギナーあるある事態は、さしあたり回避することができたようです。

  「書いても公開してないなら”ブログ更新の停滞”は回避できてねえだろ!!!!!!」

という感じです。さすがに我ながら呆れ失笑を禁じ得ません。自らの怠惰さを開陳するのはともかくとして、実際にネットでの質問箱を通じてのみならずリアルでの友人・知人からも「はやく次書いてよ」「楽しみにしてるよ」という声を結構多くもらいました。根が怠惰な自分にとってはすごく励みになったし、純粋にうれしかったです。ありがとうございました。

 

 さて、例によって長い前置きになってしまいましたがここらで本題に入ります。

 みなさんは表題の知性とか叡智とか賢さといった言葉について、どんなイメージを持つでしょうか。

 このブログを見てくださっている方の多くは、足を踏み入れた(つまり卒業や修了のいかんを問わずに入学をしたということについての)最高学府が大学かそれ以上の学府なのではないでしょうか。そして、そのような方が上述した概念について想起する場合、深さなのか幅の広さなのかその両方なのかはともかく、一定の学問的ディシプリンに基づいた知識体系についての「質×量」の積を指すことが多いのではないでしょうか。ちなみに僕の考えだと、深さ要素について8割・横幅要素について2割といったバランスの上で質×量の総量で認識しています。

 ところが、このような概念とはまったく異なる定義で、知性や叡智や博識が定義されている場合がある気がします。特に今回取り上げたいのは「他者に対して何らかの概念を受容させる能力」といった定義のものです。ザックリと換言してしまえば「他者への解りやすさこそ賢さ」「何もわからない(事前知識のない)人にも解りやすさを提供できる人こそ、本当に頭の良いひとだ」といったものです。長いので、以下の本稿では仮に「解りやすさ説」とします。

 僕の見解を先に述べておくと、この定義はかなり的外れで受け入れ難いものだと考えています。要するにクソだと思います。今までの短い人生を振り返ってみても、それになりに恩義があったり世話になった親類などからこういう言葉を浴びせられた折には本当に、本当に嫌な思いをしてきました。年に一回顔を合わせるか機会があるか否かくらいの関係にあって、一定の恩義がある赤の他人でない親類からこうした言葉を投げかけられというのは大変精神的なストレスが大きいものです。私は三親等に大卒者がいないのですが、そのせいもあってかこのストレスを理解してくれる近親者がほとんど居ません。これはなかなかつらいことです。

 「解りやすさ説」に対するごく素朴な反証事例として、「アルファベットを解さない者に対して、『解りやすさ説における賢者』は英文法を理解させることができるか?」というものが挙げられるでしょう。僕は神憑りのような神秘的な能力の他にこの問いを肯定するケースが思いつきません。そもそも、知性・博識・賢さの概念を問う場合にあって、神秘的ないわば”超能力”を定義として採用することにはかなりの違和感があります。

 

 すみません。反証についてもう少し掘り下げようと思ったのですが、腰の痛みと疲れが急にキツくなってきたので本稿はここで一旦区切りを付けようと思います。本当にこのところ疲れが抜けないんです。マットレスがヘタって来ていて朝起きてもすっきりしないとか原因は色々考えられるのですが、とにかく諸々の環境が良くありません。

 先日、Twitter上で私がちょっとした指摘をしたことがきっかけで『しょぼい起業で生きていく』の“えらいてんちょう”通称えらてん さんからAmazon欲しいものリストを通じて本を買ってもらったのですが、本ブログの読者の方のあふれるチャリティー精神に期待して(?)ここにもリンクを貼っておこうと思います。

 そういえばAmazon欲しいものリストを公開することについて、某ネットテレビの番組でHKT48を引退したアイドルの指原某が「底辺の人しかやってない」と言っていましたが、諸賢ならご案内の通りわが国の租税の所得再分配機能は世界的に見ても低いわけで、本来それを補うチャリティーの効用最大化を図ることはたいへん理に適った話です。HAVEsである指原某の謂いは持てる者のポジショントークに過ぎず、耳を傾けるに値しません(バラエティ番組でのぱっと出の1コメントに目くじらを立てても仕方ないですし実際そんな真剣に批判するつもりもありませんが)。

 

 というわけで今回は全然内容が濃くないにも拘わらず恐縮ですが、以下のリストを覗いてやってください。きっと幾らかブログ更新の速度が上がると思います。それではおやすみなさい。

www.amazon.jp


「『わがまま』時代の民主主義」イベントを聴いての備忘録

 こんばんは。数日間更新をさぼってしまいました。じつは下書きには9つほどネタを温めているのですが、事実確認とか誤読とかといったことのチェックが後回しになって公開できていないのです。怠惰を反省しないといけません。

 さて、今夜は宇野重規先生の登壇する書籍の刊行記念対談イベントを聴くため、下北沢まで行ってきました。イベントのタイトルは、”宇野重規×富永京子「「わがまま」時代の民主主義」『みんなの「わがまま」入門』(左右社)刊行記念”です。

 イベントの開催を知ったのはだいぶ前だったにも拘わらず、不肖にも未読のまま当日を迎えてしまいました。宇野先生とコンビを組む富永先生は社会運動論がご専門の研究者です。富永先生の本(ナカニシヤのやつ)は二年くらい前に何かの雑誌で紹介されているのを見て知り、立ち読みしただか図書館でザっと眺めた記憶があります。「ほ~ん、こんな同世代の人間がおるんか。60年安保とそんな違うかねえ。」みたいな感じを得た気がします。あんまよくおぼえてないですね。

 ともかく、本稿では自分の志学している分野と関わりそうなポイントで気になったor引っかかったポイントを備忘録として残すことにします。この記事でイベントの流れを概観したり全体を要約したりといったことはしないので、ぶつ切りのアイディア箇条書きみたいでお見苦しいでしょうがご勘弁を。

 

 

 第一に、”個人主義”の範囲をどの程度の射程とすべきかということ。例えばトクヴィルが用いた”個人主義”というワードは、現代の素朴な直感で類似するように思われがちな”利己主義”とは決定的に異なる語法・概念であるわけですが、この個人主義という概念を現代に暮らす我々が用いるとき、その含意とか範囲みたいなものはどのようにあるべきか、というクエスチョンがあるのではないでしょうか。

 

 第二に、異なった属性を持った人々が社会的に連帯したり協働するうえで、専門知とか教養といった徳(virtue)をどのように扱うべきか。イベントでは、相対的に知識に劣るものが抱く「己の無知への後ろめたさ」が社会的連帯への参加を阻む障壁となりうるから「そういう説教臭いのは(共同体の価値観として)抜きにしたほうがよいのでは」という感じだったように思われたが、果たしてそれでよいのか。あるいは、相対的な知識や教養の格差は、本当に連帯や協働に向けて利用できないのか。

 

 第三に、寛容をはじめとする諸々の社会的規範は、その道徳的美点を内在的価値に置いてよいのか。あるいは分析的な正当化は試みられなくてよいのか。例えば、昨今の世論を賑わせている某美術展における諸々の批判を、”時代的不寛容の発露”といった粗い意味付けで評してしまってよいのか(少なくとも私はその当為は最低限、普遍化可能性テストをクリアすべきで、本件はそれに適うものでないと考える)。

 

 第四に、なにか目的をもって議論するにあたって”空気を読まない”とか”迷惑を顧みない”とか”遠慮を感じない”みたいな感覚を擁護し、称揚するのは得策といえるか。あるいは、議論を活発化させるにあたってもっと良い動機付けはないだろうか。

 

 

 このあたりが今日得た問題意識でした。眠たいのと明日(というかきょう)に向けてやらなきゃいけないタスクが(よく寝ることを含め)多くあるので、細かい思索はまたの機会にまわし、備忘録兼ToDoリストみたいな感じでまとめてみました。僕が見ても何のことやら取り留めがないものなので、読者の諸賢にとってはより一層お目汚し度の高い散文になっていましたが、まぁ今回はご容赦ください。

 最後に、このイベントでのサプライズな出会いについて。なんと会場に中公新書応仁の乱』で有名な呉座勇一先生がいらっしゃっていました。イベント終わりに5分弱くらいお話をさせてもらったのですが、思想史を勉強する一分野としてもつ学徒として意義深い言葉を幾つか耳にすることが出来たのは望外の収穫でした。特に、史料と向かい合うことを第一の生業とする歴史学者の眼から見た、通時的なテーマを語る諸社会科学の見え方は、僕が抱いていた思想史に対するモヤモヤした感じを巧く言語化したものであり、まさに膝打ち問答といった感じでした。

 今回はいつもよりだいぶ短く済みました。明日も政治史学徒と懇談する機会があるので、そこでも有意義なインプリケーションがあることを楽しみにしつつ、ラップトップを閉じます。

食事に関する考察 ―ハレとケ―

 こんばんは。相変わらず暑いですね。今日は昼頃から後輩をお供に大宮周辺の社会科見学的なアクティビティをこなす予定だったのですが、残念ながらその後輩が体調崩してしまったとのことで、新宿まで出てビックカメラでウインドウショッピングをした以外は昨日同様特にお出かけをすることもなく家で過ごした一日でした。プールに行こうかなとも考えたのですが、ちょっと背中の筋肉が張っていたことと、最近2週間くらい行きたいと思って行けていなかったラーメン屋に行くことにしたので、さしあたり家に直帰することにしました。あまりの暑さにやられて帰ってきて少しシャワーを浴びてから昼寝をしたのですが、これが運の尽きで割と長い間こと眠ってしまいました。結局ラーメン屋には行けずじまいで、また後日に繰り越されることとなりました。

 ところで、最近LINEの調子があまりに悪く困っています。送信が完了された、つまり送信時間が表示されているにもかかわらず、相手にメッセージが届いていないということがしばしばあるのです。どうしたら直るのかなと思案に暮れています。同じような症状が起きていて、かつ改善されたような方はその処置を教えていただけると大変嬉しく思います。

 さて、今日もお料理・食事の話をしたいと思います。昨日の投稿のコメント欄で「冷製パスタのレシピも聞きたい!」とのご意見をいただきました。レパートリーはあるのですが、長らく作っていないので自分で作って味を確かめてから書こうと思います。今のところトマト系とクリーム系と2つの候補があるのですがどちらがいいでしょうかね。いずれにせよ、したり顔でゲロマズレシピを上げては沽券に関わりますからセルフ毒味は外せません。

 そういう訳でレシピ投稿は後回しにし、今日は私の「食事についての考え方」について取り上げてみます。

 わたしが、個人的に衣・食・住の中でもっともこだわるのが食の部分です。各地を鉄道で探訪・巡検していますが、可能な限りでメシ(と風呂)だけはケチらないようにしています。

 ちなみに衣には機能面を除いて殆ど興味が有りません。私の価値観として「嗜好の優劣を感じないものにカネはかけない」というものがあります。服飾素材の善し悪しなんて判らないし、そもそも服なんて目を瞑ってたら何のことやら判らない、目を開いていても鏡がないと判りません。わたしはそういう形而下のしかも極めて皮相の部分でああだこうだ感じる趣味が無いのです。結婚式に招待されてTシャツ短パンでいくようなマネはしませんが、これも程度問題だと思っています。はっきり言って日々のオフィスワークをするのにCfa(わからない方は温暖湿潤気候でググってください。高等学校で学ぶ地理のやつです)の日本の気候でスーツを着るのをデファクトスタンダードにするのは非合理を通り越して滑稽です。正気の沙汰ではありません。

 

 食い物の話に戻りましょう。そんな訳でいわゆる食道楽に結構親和的な私なのですが、しかし、その中でも割と「霽れ(ハレ)と褻(ケ)」を区別したいタイプだと自認しています。 

 諸賢には釈迦に説法ですが、「霽れ(ハレ)」というのはイベントとかそういう特別な日ということですね。成人式とか入学式の「晴れの日」のハレも同じ意味でしょう。対して「褻(ケ)」というのは"日常づかい"とか"普段の"みたいな意ですね。正確性は保証できないのですが、"ケガレ"みたいな強いネガティヴ要素はなく、usualくらいの意味だと思っています。

 ところで、「グルメ」とか「食通」とか「食道楽」と聞いてどんなイメージを持つでしょうか。おそらく多くの人は『美味しんぼ』の海原雄山とか山岡士郎みたいな連想をするのではないでしょうか。f:id:Tocqueville_tan:20190802001158p:plain

 いうなれば普段から食うもの全てにうるさくて、およそ食で饗す側には回りたくない相手、みたいな感じでしょうか。個人的に全国各地の食の名品や銘酒に関して勉強になることが多いこと、登場人物のイカれたセリフが滑稽で笑い種としてウケることから、『美味しんぼ』は割と読み込んでいます。ただ作者・雁屋哲の直情的で分析を欠く食文化以外のイデオロギーに関してはまったく支持できませんがね。

 

 しかし、僕の場合はそういうタイプでは無いのです。むしろ、「霽れ」の「褻」の食事を区別して、それぞれの枠の中で愉しみたいという感じです。日常のおうちごはんはそのほとんどが褻の食事なはずで、それに霽れの要素を求めることはズレている気がするのです。言うなれば子供の授業参観に行くのに、パリコレのランウェイを飾るようなファッションはやはり場違いですよね。そういう感じです。

 この褻の料理の考え方について、私より洗練された方が居ます。料理研究家土井善晴さんです。詳しくは彼の著書などを読まれるとよいでしょう。紙媒体からウェブ記事まで、いろんな雑誌にも寄稿されています。

 彼は「一汁一菜のススメ」をされています。一般に推奨される「一汁三菜」をより簡便にした形態ですね。僕としては、一菜で栄養素のバランスを担保するのは結構難しい気もするのですが、まァ品目の教条化から解放したという点で支持しています。

 一方でよりドラスティックに、こうした説教臭いような食事の理想のあり方そのものを棄却する考え方もあるでしょう。しかし、この立場には私は賛成できません。 

 私の一方の親戚は静岡県の沿岸部に多く住んでおり、中には漁師を生業としている人もいます。そういう訳で、幼いときから未明獲れのイサキやらタチウオやらシラスやらがお裾分けとしてその日の夕刻にはクール便で届くという食生活を送ってきました。あるいはもう一方の親戚が住む会津から、コシヒカリの新米が届けられ、我が家の米びつは常にこのコメで満たされていました。

 そうした食生活を送ることで、どの季節にどの食材が旬を迎え、そうでない時季の品や鮮度の劣るものに比して旬の新鮮な食い物が旨いかということを、まさに舌をもって学んできたわけです。

 こうした徳は、やはりひとつ認められて然るべきだと思います。もちろんすべての人にそれが実現可能でないのでどの程度強い規範として採用できるのか?という指摘はもっともでしょう。ただ、僕個人の経験としても、より一般化して褻の食文化の一環としてもこうした食について理想のあり方の議論そのものを棄却するのは正しいとは思えません。

 まあ、こんなに偉そうに語っていても実際のところ日々の食事は面倒だからお茶漬けですますとか、インスタントのパスタソースでチャチャッと済ますみたいなことをしているのですが、それと理想論とはまた別ですからね。

 読者の皆さんは食事についてどんな考えをお持ちでしょうか。「コメは単一銘柄米に限る!」とか、「ビールは一番搾りに限る!」とか、「蕎麦粉8割以下の麺は蕎麦とは認めない!」とか、いろんなこだわりがありますよね。コメント欄でのご意見をお待ちしています。それでは。

酷暑の日のおうちごはん

 こんばんは。今日も暑かったです。昨晩とくにタスクがあるわけでもないのに積ん読をだらだら眺めていたら午前3時くらいになってしまっていたので、今朝はゆっくり起きることにし、9時半ごろに目を覚ましました。本当は起床後パパっと身支度をして涼しいうちに図書館に行こうと思っていたのですが、ウェザーニュースいわく最低気温25℃最高気温36℃になるというので外出はやめて家に籠ることにしました。

 ただ、家で過ごしていても基礎代謝の電源はOFFにできませんから腹は減ります。ところが最近忙しくてあまり家に居ないのと、暑い日が続くことから食材ストックを減らしていて、あまり冷蔵庫の中が豊かではありません。あるのは賞味期限切れの野菜炒めミックスと袋麺だけ。動物性たんぱく質、一切なしです。

 しかしもっと大きな問題があります。それは「台所が暑すぎること」。気密性に乏しい築40年超の木賃住宅というものはとかく夏暑く冬寒いのです。居間と諸々が一体のいわゆるワンルームではないのゆえに、トイレと台所の温度環境は驚くべき劣悪なものとなります。恐らく我があばら屋ほどひどい環境にお住まいの人はそんなに一般的ではないでしょうが、しかし斯様に暑い日におうちでごはんを拵えてくれるひとには感謝しなければなりません。実家にいるときは親が有意に調理を避けたいオーラを出していて、これ幸いと自分が代役を買って出ていましたね。ただ、僕は自分で作るならニンニクとかトマトとかセロリとかを効かせた欧風の創作冷製料理を好むので、和食っぽい(≠日本料理)メニューを好む親としてはそんなに好んでなかったです。逆に意外なことに、祖母はすごく好みの味だったようで毎夏一度は振舞っていました。

 まぁ残念ながらいまの我が家ではほかに調理担当者を募れませんので、クソ暑い台所へサーキュレータで冷風を供給しつつ、ハッカ油を希釈した特製マジマジを身体に霧吹きして料理をしました。まぁぶっちゃけレンチンすればガスコンロなしに調理できるのですが、訳あってそうしませんでした。ということで、今日のお昼は「炒め野菜の冷しタンメン」。空腹が限界だったんで写真はありません。悪しからず。

 さて、前稿で某小売大手をディスってしまったので、今回は名誉挽回というか誉めときます。いつも評価してるPBについてですね。ベースはこれです。

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 プライベートブランドの中にはよくわからん製造元が低クオリティのOEMを供給していて、消費者としてはその安かろう悪かろうさに閉口させられることもありますが、これは美味しい。味の系統としては「サッポロ一番塩らーめん」と大差ありません。サッポロ一番シリーズはサンヨー食品の商品ですからOEMではないのですが、それと聞いても違和感ないですね。このPBはマルちゃんシリーズの東洋水産製です。

 というか所在地の神戸市西区見津が丘をググったのですが、あんな北のほうに食品工場があるんですね。近くに伊藤園系の茶工場もありましたから、食品系工業団地として立地してるのかもしれません。近傍の神戸西インターから貨物自動車で物流するのでしょう。

 さて、冷やしタンメンのレシピ作り方に戻ります。まずは具の野菜を炒めます。少なめの塩胡椒とやや多めの油で5分ほど炒め、チューブニンニクを1.5センチほど加えます。強火の炒めモノをするようなときは焦げるのでホールとか大きい場合を除いて香草類は後入れが無難でしょう。

 袋めんの方は、表示時間通りにゆでたら麺と茹で湯を分け、麺を流水で冷やします。粉スープを溶かすのは茹で湯でも水道水でもどちらでもいいでしょう。ただ商品開発者の見解を推測するに、茹で湯の油分は味に無視しえない程度の存在感があると思われますからそこには注意がいりそうですね。まぁ僕は完全に気分です。新たな湯水でスープを溶かしても本メニューでは然程絶望的な結果にはなりません。

 ともかく、スープを規定よりやや少ない水量で溶かしたら、あとは氷を入れます。家庭用製氷皿サイズなら5つくらいでしょうか。この氷は結構デカい要素です。そしたら麺と炒め野菜を以て完成です。

 この冷やしタンメンは袋麺をベースにしてますが、氷を入れるくらい冷やしても油脂分の塊が気にならないのがいいところです。それはサッポロ一番塩らーめんでも西友PBでも同じです。だいたいトータル10~15分でできますし簡単ですよ。

 今回は野菜炒めミックスが賞味期限切れだったのと、個人的に高温の油を通した野菜が好きなのでガスコンロを焚いてたわけですが、しんなり野菜が好きだったりこだわりが無い方ならば、野菜は濡らしてラップをし5~6分レンチンするのでもいいと思います。夏バテが気になる方はショウガや大葉を刻んで入れたり、摺り胡麻を多めに入れても美味しいですよ。ぜひお試しください。 

 ブログを使った”文字によるメシテロ”というあらたな企てはいかがでしたでしょうか。今回もまたコメントを頂けますと嬉しいです。では、さようなら。

“コスパ”と効用

 こんばんは。昨日の第一稿が思っていたより多くの閲覧をいただいたようで驚いており、また読者には感謝しています。まぁ欲を言えば、できればコメントでリアクションをくださるとモチベーションが上がります。投稿から24時間で3ケタちょいのPVがついたのですが、これはなにかbotみたいなもので新参者を査証してたりするんでしょうかね。そこらへんに関しては全然わかりません。

 さて、最近耐え難いほど蒸し暑い日が続くので、大学や公営のプールに通うことが習慣化してきました。ぼくは睫毛の形がおかしく(コレは自分でも言っていること正しいのかよく解らないのですが)やたら水が目に入り込んで痛むため、ゴーグル禁止だった小学校低学年の頃まではヒドい水嫌いで泳ぐのも25mがやっとだったのです。ところが、小学3年生のごろに勝浦にある親の勤め先の保養所に附属するプールで、静岡の浜育ちの祖母に泳げないことを残念がられたり親に挑発されたりといったことから発奮し、3日の猛特訓の末見様見真似でバタフライをやるまでに成長したのでした。

 そんなわけで、専門教育を受けていないのでフォームは不細工でしょうが、マイペースにゆっくりと平泳ぎで回遊するのは結構好きです。ただ最近バタフライがいまひとつうまくいかないのと、クロールも回数を重ねると肩が痛みます。

 

〈きょうの本題〉

 さて、本題に入るとしましょう。長々と関係のない話をしてたら本題で何の話をしようとしてたのか忘れた、なんてことは僕にとって決して無縁のことではありません。しょっちゅうです。何を隠そう、既にプールで泳いでいた時に練っていた構想の1/3を忘れました。恐ろしい短期記憶の貧しさです。誰か救ってください。

 ともあれ、きょうの投稿は「”コスパ”と効用」と題してみました。1年ほど前の友人との会話から着想を得たものです。

 ある時、その友人がこう述べました。

 「コスパばかりにこだるわっていたら人生の豊かさのようなモンを失う気がする。」

 彼とは短くない付き合いですので、言いたいことはよく解りました。私なりに日日翻訳すれば、

 「類似する商品にくらべて相対的に安価なものばかりを選好して消費し、そこから得られる効用の多寡ばかりを気にしていたら、相対的に高価なものから得られるであろうより高い効用を知らぬ不幸を蒙ることになるのではないか。」

という感じでしょうか。うん。わかる、わかるぞ。

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 これはアメリカ資本に呑まれた某全国チェーン小売店の以前の標語ポスターです。現在は“やすいクセして”だったかな?私もよく使います。生鮮食品の鮮度をウリにして返金サービスもしているのですが、日用品のプライベートブランドがよく充実していて基本的に高く評価しています。ただ一点、過熟というか腐敗を恐れてなのか知りませんが、どの店舗に行ってもトマトが青いまま捥いできたような味の薄さ・旨味の浅さであり百発百中のゲロマズさであることを除いては。近傍の某Kストアさんとかと較べると

目も当てられません。生食用であることを疑うレベルです。ガキの頃にアレを食わされてたなら間違いなくトマト嫌いになるでしょう。実に罪作りな品質です。

 悪い癖でまた関係のないトマトの話に脱線しました。話を戻しましょう。ここで僕は、この友人の「コスパ」というワードでそれを論じたのには違和感を覚えました。なんというか、「その場合コストを大きく見積もりすぎか、あるいは効用を過少に認識してんじゃね?」ともいうべきいう感覚です。

 私は学部生活の冒頭にチロっとミクマク基礎をやらされた程度の知見であり、某究会経済学コースの恐ろしい人々みたいのようにエピソードを近代経済学的観点から解剖できないのですが、素朴な実感として彼の謂い(アンチ“コスパ”)、そして私の抱いた違和感には何かインプリケーションがあるように思います。

 例えば、その友人(以下ではアンチ”コスパ”を略しACP君と呼ぶ)とした今年はじめの旅行について。僕らは朝の4時には起き、片道500kmの距離と2370円の交通費(みなさん何の事かお判りでしょう)、そして付随コスト2000~3000円ほどを支払って、ある素朴な食事をしに行きました。それが何なのかはnoteで記そうと企んでいるのでここでは書きませんが、とにかく主食材それ自体は家でも食えるし、なんなら百均とかディスカウントスーパーですら買えます。僕はふとした契機からその食材が名物であることを知っており、今回の旅行でアクセスしうるような立地から旅程組み込みを希望したのです。おそらくACPくんは私が提案するまでソレについて知らなかったか、もしくは積極的にそれを食いに行くことを希望しなかったでしょう。

 しかし、その食事を平らげた私もACPくんも極めて高い効用を得ました。我々がそのように感じたのは、ここまでコストをかけてきたサンクコストの大きさばかりに起因するものでなく、今まで食べていたものとは全く違う優れたクオリティをもっていたからでしょう。
 さて、ここで疑問が生じます。果たしてここで得た効用を、我々は初めからどれほど精確に予期できていたでしょうか。ソレを知らなかったACPくん(既知だったらごめんな)、そしてそれを知り旅程に組み込むことを望んだ当の僕でさえ、そこで得られた効用は予想外のものといって差し支えないでしょう。本稿でコスパという単語にクオーテーションマークを付けたのも、こうした特殊な用法に因るものです。果たしてこれはコストとパフォーマンスについての比較衡量という語意をどれほど含むかなあ?という意味ですね。

 さて、この問題は、我々を当然に包囲し、そして我々自身も享受している自由市場という経済システムでも共通するように感じます。

 ところで、リアルで交友のある人のなかには、(どれ程の真剣さを以てなのかは測りかねるが)私を“社会主義者”とか“共産主義的”と評する人が居ますが、当のからすれば全く的外れです。私は市場とか規制とかといったものを道具的にしか評価しておらず、それらのいずれにも内在的価値を認めたり、まして宗旨的価値を認めたりしていません。

 ついでに言えば、日頃の仲間と語らっている国鉄民営化に関するいくつかの部分的批判や新幹線並行在来線に対する議論においても同じことが言えます。特に国鉄民営化の問題はその構造が極めて複雑であり、単なるミクロ経済学的問題として完結できるかについてかなり疑問があります。ですから民営化で上手くいった箇所とそうでない箇所についてそれぞれ話題は尽きないわけです(ここで民営化に一定の理解を示しているのはその功労者とされる某社のK氏や民営化に理解を示しているYouTuberへの忖度ではもちろんありません)。
 まぁ浅学菲才の私ですが、”情報の対称性が全然ねえから市場はクソだわ”みたいなモデルで現代経済学が廻ってるとは思っていません。むしろそこを市場原理で補完している広告やPR業というものに興味を持ち、手隙のタイミングでボチボチ学んでたりするのですが、そこでも色々思うところが無いわけではなく……。
 まぁ、その話はまた別の投稿にしましょう。字数を見たらもう3000字近いそうです。案外いくもんだなあ。今晩はここらでお開きにします。話があっちこっちに飛んで本題についてあまり触れられなかった気もしますが、ご意見や感想などありましたらコメント欄にお願いします。それでは。

ブログをはじめてみました。

ごあいさつ

 こんにちは。トクヴィルたんです。このあまりキャラにそぐわないハンドルネームですが、以下のTwitterで使っているものをそのまま使っています。twitter.com

 “~たん”というネーミングについては、“刑法学たん”や”思想史たん”などといった、冠した学術分野について投稿するもので我々の友人らの間で「学術たん」と呼んでいたアカウント群からオマージュしたものです。ちなみにオンラインでもオフラインでも極めて親しい友人の南海先生(TwitterID:@machiavelli1879,以下のアカウント )は当初”マキャヴェリたん”というアカウント名でした。というかどっちかというと学術たんアカウントよりマキャベリたんアカウントに寄せたような気もしてきましたが、まぁどちらでもいいでしょう。

twitter.com

 

 さて、以前からやろうやろうと思っていながら後回しにしていたブログの開設&投稿ですが、ようやく重い腰を上げて取り組んでいます。実は複数のネタを温めてあるのですが、1本目の投稿ということで変に気負いしてしまって遅疑逡巡し、どれにするか決めかねていました。しかし、初投稿のタイミングだけは本日7月29日にするぞと固く決心していた(その理由は本稿末で。)ため、この際エイヤっと決めてしまったわけです。

 ちなみに心の内で決していた初投稿ネタは10分くらい前に気が変わって次回以降に回すことにし、本稿では「普段そういうの嫌ってるくせに何故タイトルに横文字をぶっこんでいるのか?」と「そもそもなんでトクヴィルなのか?」とについて書くことにしました。

 

横文字タイトルについて

 まず、ブログタイトルの横文字の件について。これはフランス語でこのような意味のある言葉です。

 
 

souvenir     

IPA: səsuvəniʀ, /suv(ə)niʁ/; Gender: masculine; Type: verb, noun;
  •  
    土産
     { noun }
    objet que les touristes aiment rapporter de leurs voyages soit pour eux-mêmes, soit pour les offrir en cadeau à des parents ou amis
    Qu'as-tu acheté comme souvenirs?
    土産何買ったの?
  •  
    思い出
     { noun }
    Le conférencier s'est appesanti sur quelques souvenirs de ses jours de collège.
    講演者は自分の大学時代の思い出を詳しく話した。
  •  
    記憶
     { noun, Verbal; Noun }
    Cette photo m'a rappelé des souvenirs d'enfance.
    その写真は子供時代の記憶を呼び戻した。
  •  
    お土産
     { noun }
    souvenir (objet, cadeau)
    Qu'as-tu acheté comme souvenirs?
    土産何買ったの?
  •  
    回想
     { Verbal; Noun }
    Sa fille Edith se souvient d’une expérience de sa jeunesse :
    スミス大管長の娘のエディスは,青少年時代の経験を次のように回想している。
  •  
    形見
     { noun }
  •  
    回顧
     { Verbal; Noun }
    Après l’opération, se souvient-elle, je n’avais presque plus mal et je respirais plus facilement.
    マミーは回顧してこう述べています。「 手術後,痛みはほとんどなくなり,呼吸も楽になりました。
  •  
    回顧録
     { noun }
  •  
    御土産
     { noun }
    souvenir (objet, cadeau)
  •  
    想い出
     { noun }
    Son histoire me rappelle des souvenirs de mes parents.
  •  
    メモリ
     { noun }
    Ne laissez-pas vos souvenirs..
    メモリ を さ せ な い で 下さ い "
  •  
    記念品
     { noun }
    Comme s'il gardait un petit souvenir de la vie de chacun.
    人々 の 人生 から の ささやか な 記念 品 みたい
     
     

 なんか引用元サイトからうまく挿入できずガチャガチャして見苦しいのですが、こういった意味を持つ言葉です。抽象的な語感イメージとしては「経験やものごとを思い起こさせる(モノ・こと)」といった感じでしょうか。そこから、そうした経験や物事を想起させるものや、転じて記憶や経験を通時的に呼びおこしたりする書物として「回想録・回顧録」といった語意も含むわけです。英語でも「おみやげ・記念品」など同様の語意そして綴りで“スーベニア”という単語として存在しますね。

 さて、もう読者諸賢はお気づきかもしれませんが、この語は1893年に刊行されたトクヴィルの最晩年の著作『Souvenirs』(邦訳は(1988年)『フランス二月革命の日々 トクヴィル回想録』喜安朗訳,岩波書店.)のオマージュです。つまりオマージュのハンドルネームでオマージュのタイトルをつけたということになります(笑)。まったく門外漢のフランス語からのカタカナ転訛にあたっては、みすず書房から出ている松本礼二(2011)『トクヴィルで考える』でのルビ表記を参考に“スーヴニール”という表記としました。ちなみにこの本ですが、第一巻と第二巻がそれぞれ上下巻に分かれて計4冊を擁する分量の『アメリカのデモクラシー』(以下『デモクラシー』と略記)を読むにあたってのよい参考書となると思います。実際、後述の『デモクラシー』講読の授業では副読本として指定されていました。

 ちなみにどんな内容を上げていくかに関しては、詳細には決めかねているものの表題通りの『回想録』あるいはもっと簡素な『備忘録』としてつけていきたいと思います。その時々に何を想ったのか、なぜそう考えたのか、何を感じたのか。そうしたことを月日を跨いだ後に追体験すべく書いていこうと思っています。

 ただ、自分の考えている頭のなかを開陳するわけですから、自家利用する他にもある程度インセンティヴが欲しいなぁというのは少なからず感じているところでして、ありていに言えば雀の涙程度でもマネタイズしたいと欲していました。その際の媒体として、この“はてなブログ”と“note”とで逡巡した(noteの記事ごとのマネタイズは私の企図に極めて親和的だった)こともなかなか腰が上がらなかった一因なのですが、さしあたりは本ブログをリッチコンテンツ版あるいは回想録として、後者のnoteをお手軽コンテンツ版あるいは旅行記として併用することとしました。noteのほうについては後日そっちで書き、リンクでも貼ろうと思います。

 

なぜトクヴィルなのか

 さて、わたしがトクヴィルを紐解くようになったきっかけから述べたいと思います。その最初の一歩は、評論家の宮崎哲弥氏との出会いによるものです。あれは大学2年目の春だったかと思いますが、当時彼が定期的に出演していた某ラジオ番組のスタジオでいわゆる出待ちをし、お話をさせていただいたのでした。

 私が当然に想定していた大学でのアカデミックな生活がまるで期待外れに終わり(私の入試科目は地理Bと世界史Bであり、公民科目は高校の選択科目でしかなかったのに入試科目にしていた同期学生が自分より当該科目の素養が無いみたいなことが頻繁にあった)、本来来志学していたはずの政治学や法学の形而上的分野の学修ですら、まるで長期入院者へのリハビリがごとき遅遅とした進度と薄い内容が展開される(しかも厳格な出席チェックにより講義に出ずに自学自習でということすら許されない)ことに食傷してしまい、大学を辞めることも真剣に検討し始めていました。

 その頃では、代わりにそれまで漠然と興味をもちながら全然学んだことのなかった仏教と神道とに興味をそそられ、入門書からお勉強をするといったことが読書生活の軸になっていました。そこで『知的唯仏論』を手に取った際に宮崎氏は面白いなと感じ、仏教分野以外の著作も渉猟することとなったのでした。

 ある日、宮崎哲弥氏が一時期私と全く同じ大学課程に身を置かれていたという事実が明らかになりました。なにか縁を感じ、上記のラジオ生放送の後に彼の著作とサインペンとを携えてスタジオ通用口で出待ちをしたのでした。お会いした宮崎氏は不躾な突撃にも懇切に対応してくださいました。その場での15分~20分くらいの立ち話で、もともと志学していた上記分野の学修環境に失望していること、いま身を置く大学環境から去ることも検討していることを伝えると、彼は私と同じ課程に居た際に初ゼミ(?)で師事した政治思想史学者の松本礼二教授(当時)の名を挙げ、「政治思想や政治哲学に足を踏み入れたのは松本教授の下での経験がきっかけだった。辞める前に一度彼の講義を受けてみたら?」とのアドバイスをくださったのです。

 後日、アドバイス通りシラバスを検索してみました。春・夏学期の科目登録期間は過ぎていたので秋・冬学期の科目で。すると、どうやら松本教授の講義ではトクヴィルの『デモクラシー』全四巻を講読するというではありませんか。実は『デモクラシー』は、高校生の時に手に取ったことがありました。ただ、それはE.バーク『フランス革命省察』、ミル『自由論』『代議制統治論』を読んだついでに副え物程度にザっと一読したという感じで、しかも古書店で3巻セットの安売りをしていた井伊玄太郎訳の講談社学術文庫版(翻訳のクオリティや日本語としての読みづらさからかなり批判の多い本であると後に知ることになる)を手に取ったのでした。これは今思えば明らかに井伊訳のせいなのですが、そのときの感想は「ずいぶん固い言葉で民主制の要素条件をたんまり挙げてんなあ」くらいのものでした。

 あくる昼、図書館で教科書に指定されていた松本教授自身による新訳『デモクラシー』を調達して読んでみたところ、その読みやすさに驚愕しました。さらに扱っているテーマ(その結論がではなくアジェンダがってことですね)が今日での議論にもかなり通底することにも新鮮な驚きを感じたのでした。第一巻の上下2冊を行ったり来たりしていると気づけば22時の閉館時間になっており、興奮冷めやらぬまま学内の24時間開室している自習室へと移動し、第二巻の上下を併せて翌朝まで読書に耽っていたことを覚えています。第一巻と第二巻がそれぞれ上下に分かれているので計4冊になって合計金額がかさむのはツラいとこですが、その価値は十二分にあると思います。いまも岩波文庫のなかでぼく一番のおすすめです。

 

 さて、その講義受ける以前のタイミングまで話ですでに4000字を超えているらしいです。初回とはいえ想定している分量をかなり超過しているので、本稿はここらで終わりにしたいと思います。一稿をやたら長くしたりこだわりだしたりしますと、絶対そのあとに続かないですからね。

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