「『わがまま』時代の民主主義」イベントを聴いての備忘録

 こんばんは。数日間更新をさぼってしまいました。じつは下書きには9つほどネタを温めているのですが、事実確認とか誤読とかといったことのチェックが後回しになって公開できていないのです。怠惰を反省しないといけません。

 さて、今夜は宇野重規先生の登壇する書籍の刊行記念対談イベントを聴くため、下北沢まで行ってきました。イベントのタイトルは、”宇野重規×富永京子「「わがまま」時代の民主主義」『みんなの「わがまま」入門』(左右社)刊行記念”です。

 イベントの開催を知ったのはだいぶ前だったにも拘わらず、不肖にも未読のまま当日を迎えてしまいました。宇野先生とコンビを組む富永先生は社会運動論がご専門の研究者です。富永先生の本(ナカニシヤのやつ)は二年くらい前に何かの雑誌で紹介されているのを見て知り、立ち読みしただか図書館でザっと眺めた記憶があります。「ほ~ん、こんな同世代の人間がおるんか。60年安保とそんな違うかねえ。」みたいな感じを得た気がします。あんまよくおぼえてないですね。

 ともかく、本稿では自分の志学している分野と関わりそうなポイントで気になったor引っかかったポイントを備忘録として残すことにします。この記事でイベントの流れを概観したり全体を要約したりといったことはしないので、ぶつ切りのアイディア箇条書きみたいでお見苦しいでしょうがご勘弁を。

 

 

 第一に、”個人主義”の範囲をどの程度の射程とすべきかということ。例えばトクヴィルが用いた”個人主義”というワードは、現代の素朴な直感で類似するように思われがちな”利己主義”とは決定的に異なる語法・概念であるわけですが、この個人主義という概念を現代に暮らす我々が用いるとき、その含意とか範囲みたいなものはどのようにあるべきか、というクエスチョンがあるのではないでしょうか。

 

 第二に、異なった属性を持った人々が社会的に連帯したり協働するうえで、専門知とか教養といった徳(virtue)をどのように扱うべきか。イベントでは、相対的に知識に劣るものが抱く「己の無知への後ろめたさ」が社会的連帯への参加を阻む障壁となりうるから「そういう説教臭いのは(共同体の価値観として)抜きにしたほうがよいのでは」という感じだったように思われたが、果たしてそれでよいのか。あるいは、相対的な知識や教養の格差は、本当に連帯や協働に向けて利用できないのか。

 

 第三に、寛容をはじめとする諸々の社会的規範は、その道徳的美点を内在的価値に置いてよいのか。あるいは分析的な正当化は試みられなくてよいのか。例えば、昨今の世論を賑わせている某美術展における諸々の批判を、”時代的不寛容の発露”といった粗い意味付けで評してしまってよいのか(少なくとも私はその当為は最低限、普遍化可能性テストをクリアすべきで、本件はそれに適うものでないと考える)。

 

 第四に、なにか目的をもって議論するにあたって”空気を読まない”とか”迷惑を顧みない”とか”遠慮を感じない”みたいな感覚を擁護し、称揚するのは得策といえるか。あるいは、議論を活発化させるにあたってもっと良い動機付けはないだろうか。

 

 

 このあたりが今日得た問題意識でした。眠たいのと明日(というかきょう)に向けてやらなきゃいけないタスクが(よく寝ることを含め)多くあるので、細かい思索はまたの機会にまわし、備忘録兼ToDoリストみたいな感じでまとめてみました。僕が見ても何のことやら取り留めがないものなので、読者の諸賢にとってはより一層お目汚し度の高い散文になっていましたが、まぁ今回はご容赦ください。

 最後に、このイベントでのサプライズな出会いについて。なんと会場に中公新書応仁の乱』で有名な呉座勇一先生がいらっしゃっていました。イベント終わりに5分弱くらいお話をさせてもらったのですが、思想史を勉強する一分野としてもつ学徒として意義深い言葉を幾つか耳にすることが出来たのは望外の収穫でした。特に、史料と向かい合うことを第一の生業とする歴史学者の眼から見た、通時的なテーマを語る諸社会科学の見え方は、僕が抱いていた思想史に対するモヤモヤした感じを巧く言語化したものであり、まさに膝打ち問答といった感じでした。

 今回はいつもよりだいぶ短く済みました。明日も政治史学徒と懇談する機会があるので、そこでも有意義なインプリケーションがあることを楽しみにしつつ、ラップトップを閉じます。